日々白瀬

日々の日記です

「自己肯定感が高い」と「自己中」は別モンやで…

タイトルは私が最近よく思うことです。

最近は「自己肯定感の高い」人に憧れたり、皆もそうなろうよ!という趣旨のSNS投稿が多いですよね。
私も鋼のメンタルを育ててセルフラブのプロ(自称)となったわけですが、だからこそ、この「自己肯定感が高い」について気になってしまうことがあります。
まあタイトルの通りなのですが…これには、海外への憧れを強く持つ人たちの歪んだイメージも少し、いや、結構影響していると思っています。

まず私は「海外の人は自分を持っててハッキリしていてカッコいい、日本人は言いたいことも言えない、自分を持っていない」という思想を持った人間がもの凄く嫌いです。
それもまた彼らの考えなのでいちいち反論したりはしませんが、めっちゃ嫌いです

自己肯定感の話に戻しましょう。
自己肯定感の高い人は、思ったことはハッキリ言って人に媚びない。自分の好きなように振る舞う。他人の批判なんて気にしない。なぜなら自信があるから。
…こういうイメージが作られているなと感じます。
それって、本当に自己肯定感の高い人間がしてることなんでしょうか?
そのイメージの人間って、言い方がポジティブなだけで、ただの自己中な人ですよね。
今言われている「自己肯定感が高い人」って、毒舌系とかサバサバ系とかの新しいバージョンだと私は思っていて、意味を正しく理解している人が少ない気がします。

自分に自信があるから批判されても無視?
自分に自信があるから好きな場所で好きな格好をする?
自分に自信があるから誰にでもハッキリ物を言う?
そしてそれが自分の個性だと主張する?

私はこういう人とはお友達になりたくないです。
「個性(多様性)」は、自己肯定感と高い確率でセットで出てくる言葉ですね。
この言葉も厄介だなあと最近つくづく感じます。

こやこやラジオでお話したこともありますが、私が思うに、自己肯定感が高いというのはどれだけ干渉せず、どれだけ介入させないようにできるか。…だと思っています。
他人との関りを利用して優越感を持ったり、自分の強さを誇示しない。
自分で自分を愛せているなら、そもそもそんなことする必要はないですよね。
そして他人の心無い言葉や、自分を称える言葉に自分を左右されない。
意見はきちんと聞いて反省も必要ですし、喜んでもいいけれど、その言葉を避けるために、またはその言葉欲しさに自分を変えてしまっては意味がないと思うからです。
私は昔から、名言だなあと感じるセリフなどを書き留めているのですが、その中の一つにこんなものがあります。

「己の望むことを!己の望むように!

己で考え!己で選び!己で決めろ!己を信じ 己を頼め

己で荷を背負い 己で責めを負い 己で守れ!

己の意思で 判断で 誇りを持って 己のために生きよ

私の敬愛する漫画家、田村由美先生「BASARA」に登場するセリフです。
この漫画のすばらしさはまた別の機会に語りたいですが、まさにこういうことですね。
こう生きられたら、自分を愛せることでしょう。
(ちなみにこの後は「それが それこそが新しい国ぞ!!それこそが新しい国の姿ぞ」と続きます。響きますね)

そして、他人の目から見て(正しく)自己肯定感が高い、自己愛が強い人々は、そうなるだけの経緯や理由があるんじゃないかと思っています。
誰にも言いたくない自分の最低な行いも、今も涙が出るような暗い出来事も、ひどく傷付けられたことも、醜く恥ずかしく情けない自分とも逃げずにきちんと向き合い、昇華した結果、自己肯定感が高まった…というだけなのだと思います。
よくある言葉ですが、光が強ければその分影も濃くなるということですね。
私たちの目には輝いて見える芸能人の方々もきっとそうなのでしょう。

常々自己肯定感については考えていましたが、最近一層思うところがあったので、このテーマで少しお話をさせてもらいました。

こんなしんみりと話をしておいてなんですが、2日後にはたまごっちの大興奮レビューの記事が上がると思います。めっちゃ楽しみです。

では今回はこのあたりで、おやすみなさい。